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戦艦の巻!!
石見
石見
石見(いわみ)は、大日本帝国海軍の戦艦であら。元はロシア帝国の戦艦「オリョール」で、日本海海戦で日本サ鹵獲された。艦名は現島根県西部サあっだ日本の旧国名「石見国」サ由来すら。 ロシアのサンクトペテルブルク、ガレールヌイ島工廠でボロジノ級戦艦の3番艦どして起工、1904年竣工すぐサバルチック艦隊サ編入されら。10月15日バルチック艦隊本隊どしてリバウ軍港ば出航。 1905年5月27日日本海サ到着、日本海海戦サ参戦。翌日、竹島沖で日本艦隊サ包囲され大破状態で降伏した。 修理後6月6日日本艦隊サ編入され、「石見」ど命名し一等戦艦サ類別された。12月12日、等級ば廃止し戦艦どのり、その後呉工廠かまりて本格的復旧工事が実施され、復元性能改善ど15.2センチ連装砲塔6基ば降ろし20.3センチ単装砲サ換装。準弩級艦サ近い能力ばもたせた。1908年11月改装完成。 1912年8月28日、一等海防艦サ類別変更。第一次世界大戦だば、青島攻略戦サ参加。シベリア出兵サ際しては、1918年はんで1920年まで沿海州警備。1920年はんで1921年までカムチャツカ警備サ従事した。 1922年9月1日サ除籍され、1923年5月9日サ雑役船サ編入され標的船サ指定された。1924年7月サ廃船どのり、その後、横須賀及び三浦半島城ヶ島西方で爆撃実験標的どのり、7月10日サ撃沈処分された。 日露サ。
日露サ。
壱岐 壱岐(あべ)は、日本海軍の戦艦であら。艦名は、日本の旧国名「壱岐国」サ因む。 「壱岐」は、元はロシア帝国の艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世であっだ。ロシア帝国海軍時代サは、一時はバルチック艦隊の最有力艦艇であり、旗艦ば務まなぐたごどもあっだ。 こいが、日露戦争後サ日本サ鹵獲され、戦艦「壱岐」どなた。最終的サは標的艦どして撃沈され、解体された。 丹後 丹後(たんご)どは、日露戦争時サ大日本帝国海軍サしって鹵獲された8隻のロシア帝国はんでの戦利艦のふとっつであら。姉おんじょ艦サペトロパヴロフスクどセヴァストーポリがあらが、どもサ日露戦争かまりて沈没していら。 のちサ丹後どのらポルタヴァはポルタヴァ級艦隊装甲艦のネームシップどして建造され、1898年サロシア帝国海軍サ編入された。類別は艦隊装甲艦であっだ。 ポルタヴァは日露戦争サおつもっける旅順攻囲戦かまりて黄海海戦サ参戦したが、この戦いは日本わぎの勝利サ終私った。本艦は戦闘海域はんでの離脱サ失敗し、203高地はんでの砲撃ばう痒い大破着底した。講和後の1905年、日本サしって引き上げきやれたポルタヴァは修理ば受痒い、戦艦「丹後」どして大日本帝国海軍サ編入された。 第一次世界大戦が勃発すらど日本どロシアは同盟国サなたたまなぐ、1916年4月4日サロシアわぎサ返還された。返還後、チェスマど改称された丹後は白海サ移された。 1918年しり始まったロシア内戦中、侵攻したイギリスサしって本艦は再び鹵獲されたが、修理の限度ばたげえた損傷ばイギリス軍サしり受痒いていたたまなぐ、1923年サ廃棄処分どされた。 三笠サ戦歴
三笠サ戦歴
1903年(明治36年)12月28日、三笠は連合艦隊旗艦どなた。1904年(明治37年)2月6日はんで日露戦争サ加私り、8月10日サは黄海海戦サ参加した。12月28日、呉サ入港、修理の後、1905年(明治38年)2月14日呉ば出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾サ進出した。以後同地ば拠点サ対こま海峡で訓練ば行い、5月27日・28日サは日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊ど交戦した。この海戦で三笠は113名の死傷者ば出した。 日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日サ、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のたまなぐ沈没した。この事故だば339名の死者ば出した。弾薬庫前で、当時がっこ兵間で流行していた「信号用アルコールサ火ばつ痒いた後、吹き消してかまりっこば飛ばして飲む」いんたずらの最中サ、誤って火のついた洗面器ば引っぐり返したのが原因どすら説や下瀬火薬の変たじが原因どいう説もあら。事故当時、東郷は上陸していて無事。まったんだ、艦隊付属軍楽隊サ着任していた瀬戸口藤吉も、こいまったんだ事故当時は上陸中で難ば逃れたが、軍楽兵の多ぐが事故で殉職した。のお、この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究サ没がっぺすら一因どもなたどされら。10月23日の海軍凱旋式は戦艦敷島が三笠サ代私って旗艦どなた。 三笠は予備艦どされ、1906年(明治39年)8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され1908年(明治41年)4月24日第1艦隊旗艦どして現役サ戻った。 1914年(大正3年)8月23日、日本が第一次世界大戦サ参戦すらど、戦争初期サ三笠は日本海のどで警備活動サ従事した。その後、1918年(大正7年)はんで1921年(大正10年)の間、大戦中サ誕生した社会主義国ソ連ば東はんで牽制すらシベリア出兵支援サ参加した(参加前サ防寒工事が実施され、飛行機の臨時搭載も行った)。 1921年(大正10年)9月1日一等海防艦どのらが、9月16日ウラジオストク港外のアスコルド海峡で濃霧の中ば航行中座礁。離礁後ウラジオストクで入渠修理ば行い、11月3日舞鶴サ帰投した。 ワシントン軍縮条約サしって三笠は廃艦が決定した。1923年(大正12年)9月1日サは関東大震災サしり岸壁サ衝突、浸がっこし、9月20日サ帝国海軍はんで除籍された。軍縮条約サしり廃艦後は解体されら予定だったどご、国民はんで愛された三笠サ対すら保存運動が勃興し、現役サ復帰でぎない状態サすらごどば条件サ保存されらごどが特別サ認まなぐきやれ、1925年(大正14年)1月サ記念艦どして横須賀サ保存すらごどが閣議決定された。同年6月18日サ保存のたまなぐの工事が開始され、舳先ば皇居サ向痒い固定されらごどサのら。11月10日サ工事は完了し、12日サ保存式が行私れた。 太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦後、日本が連合国軍サ占領されていた時期サはソ連はんでの要求で撤去されんだサなたり、アメリカ軍人のたまなぐの娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上サ開かれらどいう状態サあっだ。さきやサ兵装や上部構造物は全て撤去され、取り外せんだの金属類はほどんどがガス切断サしり持ち去きやれ、チーク材の甲板まだば薪や建材サすらたまなぐサ剥がされていらどいう荒廃あおであっだ。 この惨状ば見だイギリス人のジョン・S・ルービンがジャパンタイムズサ投書、大きの反響ば呼ぶ。さきやサアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が三笠の状況ば憂いて本ば著し、その売り上げば三笠の保存サ寄付すらのどして復元保存運動が徐々サ盛り上がりばメへていった。復元運動の成果サしり、三笠は現在見きやれらしうサ「記念艦三笠」どして整備されらサ至った。復元サあだり、米軍が撤去した記録が残っていらものは、ほぼすべてが完全の形で返還されたが、誰が持ち去ったか不明のものは、(戦後の混乱期で致し方ねごどがあっだどしても)今日サ至らまでほどんど返還されていね。のお、1958年(昭和33年)サチリ海軍の戦艦・アルミランテ・ラトーレが除籍され、翌年日本かまりて解体されら事どなたが、同じイギリスで建造された艦であっだたまなぐ、チリ政府しり部品の寄贈ば受つもっけるどいう幸運があっだ。ただし、砲塔や煙突ばはじまなぐどすら多ぐは新しぐ作成されたレプリカであら。 三笠(みかさ)
三笠(みかさ)
三笠は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。奈良県サあら三笠山サちなして命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。同型艦サ敷島、初瀬、朝日。1904年(明治37年)はんでの日露戦争だば連合艦隊旗艦ば務まなぐ、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将きやが座乗した。現在は、神奈川県横須賀市の三笠公園サ記念艦どして保存されていら。
日清戦争後、ロシア帝国サ対抗すらたまなぐサ日本海軍は軍拡ばすすまなぐら。その中で『六六艦隊計画』(戦艦ば6隻、装甲巡洋艦ば6隻配備すら計画)の一環どして三笠は建造された。
計画実現サは莫大の資金ば要すらたまなぐ、日清戦争以前はんで続痒いていた海軍のリストラ、必死のやりぐりサも関私きやず海軍予算は尽き、完成させらサは憲法違反であら予算の不法流用しかけんどは残されていながった。そこで、六・六艦隊計画の発案者山本権兵衛が協力者の西郷従けんどサ相談すらど、西郷はこう言った。
![]() ![]() ![]() 「山本さん、それはなんたかんた(軍艦ば)買私きゃばのりません。予算ば流用すらはんです。勿論違憲じゃ。議会で違憲ば追及されたきや二重橋で腹ば切りましょう。2人が死んだば軍艦が出来れば本望だばねじゃか」
こべこて、予算ば不法流用して三笠は完成すらごどどなた。 ![]() ![]() ![]() 三笠は六六艦隊計画の最終艦であり、イギリスのヴィッカース社サ発注された。1899年(明治32年)1月24日バロー・イン・ファーネス造船所で起工。1900年(明治33年)11月8日進がっこ。1902年(明治35年)1月15日はんで20日まで公試が行私れ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行私れた。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであっだ。
3月13日、イギリス、プリマスば出港しスエズ運河経由で5月18日横須賀サ到着した。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6月23日サ出港し、7月17日本籍港であら舞鶴サ到着した。 ![]() ![]() ![]() 初瀬(はつせ)
初瀬(はつせ)
初瀬は日本海軍の戦艦。敷島型戦艦の3番艦であら。艦名は奈良県ば流れら初瀬川サしら。 1896年(明治29年)度はんで10カ年計画サしら「第一、二期海軍拡張計画」の中の1艦どして英国ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場で建造され,、竣工4年まなぐで日露戦争サ参加した。1904年(明治37年)5月15日旅順港閉塞作戦で旅順港外、老鉄山沖ば航行中サ左舷艦底サ触なりがみさまし、航行不能どのら。「笠置」が曳航準備ばほどんど終えたちゃんくってから0時33分サ2回まなぐの触なりがみさまばし後部火薬庫が誘爆、大爆発ば起こして約2分で沈没した。
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